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ストーリー

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1945年3月沖縄。宮城巳知子さんら県立首里高等女学校の生徒61名が徴兵された。なぜ女学生が徴兵されなくてはならなかったのか? 第二次世界大戦末期。圧倒的な戦力のアメリカ軍を主体とする連合国軍に対して、劣勢を強いられていた日本軍は、その戦況を隠し、国民の戦意高揚を図るため、あたかも優勢であるかのようなプロパガンダを続けていた。

日本軍大本営の命令の下、沖縄戦線日本軍負傷兵看護を目的として、女学生たちは「徴兵」されたのだった。「出兵」までの僅か数週間で花の女学生が従軍看護要員「瑞泉学徒隊」に。あたかも現在の「看護専門学校卒業生」であるかのように仕立て上げられたのだった。

50万人以上というアメリカ軍に対して、日本軍は僅か12万人足らず。しかも既に本土からの軍事物資の補給も食料の輸送も途絶えていた。 海上を埋め尽くす連合国軍艦の艦砲射撃、空からはグラマン機による機銃掃射、陸上には縦横無尽に走り回るアメリカ軍戦車、アメリカ軍戦車と兵士による火炎放射。沖縄の緑豊かな大地は、みるみるうちに焦土と化していった。

雨のように降る砲弾、迫り来る戦車と火炎放射に、壕から壕へと逃げ惑う負傷兵と瑞泉学徒隊の女学生たち。昼は壕の中で息を潜め、闇を縫っては水を汲み食料を探す日々。助かる可能性のない重傷兵に毒の入った注射を打って永久に眠らせよと軍医に命令される、悪夢のような日々。戦火が消え去った時には61名いた友が、半数以下の28名になっていた。

九死に一生を得た宮城巳知子さんは、小学校の教諭となり、結婚して子どもたちにも恵まれたが、ご自身の体験を他人に語ることが出来なかった。人に話すには、受けた衝撃が果てしなく大きく、口を開くには余りにも重すぎたのだ。生き残ったほかの学徒隊員への配慮もあった。他人に話すことが出来ないで、時だけが流れていった。

彼女が初めてそのことを人前で話せたのは、定年退職後の1989年、63才だった。家族に「友達の死が知られないでいるのが悔しい。悲しいんだよ」と。二度とあのようなことがあってはならない。そう思って悲惨な体験を伝えることに使命感を感じたのだ。それからは、機会ある毎に、集会や学校に招かれて自身の体験を話し続けた。講演は修学旅行生たちへのものなどを含めて300回を超す。

瑞泉学徒隊の一人だった宮城巳知子さんは、現在89才。今は体力が衰えてきて、人前で語ることが難しくなっている。

アメリカ軍の大空襲で、東京を始め日本の大都市はことごとく焼け野原と化し、敗戦は明らかだった。大本営は、ロシアまでもが参戦するという情報を受け取っていながら、降伏の時期を先送りして沖縄戦を強要したのだ。「天皇陛下万歳」の下、数多くの国民を戦死させた日本軍。軍の命令は絶対。逆らうことなど考えにも及ばない程洗脳されていた「皇民」日本国民。圧倒的な戦力で襲いかかるアメリカ軍。翻弄される沖縄県民。そんな中で17才の少女たちは何を思って看護に当たっていたのか。

敗戦後1952年沖縄は琉球政府として正式にアメリカ軍の統治下に。1972年本土復帰と共に基地から解放されるかと思いきや、現実はアメリカ軍の「太平洋の要」となった基地、沖縄。理不尽な社会を生き抜いた宮城巳知子さんに口を開かせたのは何だったのか。人前での講演で何を伝え何を感じてきたのか。

青春真っ只中での想像を絶する極限体験が彼女の口を閉ざしてしまったのか。宮城巳知子さんが、「伝えるために生かされた」と思えるようになったきっかけは何だったのか。 人が語り、笑い、人として生きていくとはどういうことなのか。宮城巳知子さんの話と、彼女達が逃げ惑った足跡の風景、沖縄戦線アーカイブス、現代の沖縄の女子高生たちの瑞々しい姿を通して、継承していくべき沖縄戦の真実を炙り出し、人が「生きる」とは、どういうことなのかを問う。

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